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Hamaguchi Lab.
濵口研究室

― 物質と生命をつなぐ分光物理化学 ―

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分子の不思議 -Wonder World of Molecules-

クレオパトラのワイン

ワインの歴史は長く、今から8000年も前にさかのぼると言われています。古代エジプトではすでに盛んに飲まれていたようです。ある晩、あの絶世の美女クレオパトラが、オリーブの香りただよう地中海料理を楽しみながら、1杯のワインを飲んだとしましょう。今日のお話は、クレオパトラが飲んだこの1杯のワインから始まります。

cleopatra

水分子の行方

クレオパトラが飲んだワインの中には、沢山の水分子が含まれていたはずです。これらの水分子の大部分は、生理現象により数時間後にはクレオパトラの体外に排出されたにちがいありません。その後、一部は蒸発して大気の成分となり、また一部は下水(古代エジプトに水洗トイレがあったかどうか定かではありません)から川を経て海に達したことでしょう。海の水は蒸発して雲となり、雨となってまた地上に戻ってきます。このようにして、何千年も経過すると、クレオパトラのワイングラスの中にあった水分子は、何回も何回もこのような循環を重ねて、地球の隅々にまでばらまかれることになります。さて、1999年の今、諸君がのどの渇きをいやすために、水道の蛇口からコップ一杯の水をくんだとします。そうすると、そのなかには、何とあのクレオパトラのワインの中に含まれていたのと同じ水分子が10個ぐらいは入っているという勘定になるのです[1]。水の分子量は18です。小さなワイングラス1杯のワインの体積を100mlとすると、その中にはおおよそアボガドロ数(6×1023)の5倍程度の個数の水分子が含まれていたことになります。計算を簡単にするために1024個の水分子が含まれていたとしましょう。地球上に存在する水分子の総数は、おおよそ1047個であると考えられています。クレオパトラのワイングラスの中にあった水分子が地球上に完全に均等にばらまかれたとすると、今任意に取り出した1個の水分子がクレオパトラに飲まれた水分子であった確率は1024/1047=10-23ということになります。諸君がくんだコップ一杯の水の中に含まれる水分子の数は1024個程度ですから、その中にクレオパトラに飲まれた水分子が何個入っているかの期待値は10-23×1024=10となるのです。狐につままれたような話ですが、たしかに計算はあっています。この奇妙さは、アボガドロ数が我々の想像を絶する大きな数であるということに起因しているのです。分子の不思議の第1は、このアボガドロ数の大きさです。1024という数は、1億の1億倍のまたその1億倍というとてつもない大きな数なのです。

分子の顔は皆同じ

Fig. 1

図1

上の話では、暗黙のうちに、水分子1個1個に目印を付けて区別することができると仮定していました。実はこの仮定は正しくありません。人間の場合、顔を見れば1人の個人を見分けることができます。一卵性双生児のようにウリ2つで似ていても、ホクロの有無など、どこかに微妙な違いがあって、必ず区別をすることができます。しかし、ワイングラス中の水分子1個1個をこのように区別することはできません。これは単に数が多いから困難であるという理由ではなく、原理的に区別できないのです。水分子は図1のように、酸素原子に2つの水素原子が結合した2等辺三角形構造をしていています。酸素原子と水素原子の結合距離は、0.096ナノメートル、2つの酸素-水素結合のなす角は104.5度と決まっています[2]。ここで、ナノメートルは10億分の1メートル(10-9メートル)を表わす単位です。もし、真空中、絶対零度で2つの水分子を比べてみることができたとすると、どこからどう見ても、寸分違わず同じなのです。したがって、2つの水分子を区別することはできません。分子の不思議の第2は、分子の不可識別性です。

我々の五感が通用する世界をマクロ世界と言います。長さで言えばメートル、ミリメートルの世界です。この世界では、すべてのものがそれぞれの個性を持っています。河原に行くと同じような石ころや砂粒が無数にありますが、これらのどれ一つとて完全に同じものはありません。一方、分子レベルで見たミクロ世界は、長さで言えばナノメートルの世界です。ミクロ世界の住人である分子には個性はありません。

では、どこにミクロ世界とマクロ世界の境界があるのでしょうか?じつはこの問題は現在でも解決できていない極めて重要な問題なのです。水は3個の原子からなる簡単な分子の一つですが、生体中の蛋白質や核酸などの分子は、何千、何万個の原子からできた巨大分子です。このような巨大分子でも、もし2つの蛋白質分子を真空中に取り出して、絶対零度で比較したとすると、やはり寸分たがわず同じ構造をとるはずです。その意味で蛋白質分子自身はミクロ世界の住人なのです。しかし、実際の生体の中では、蛋白質分子は水溶液や膜の中にあって、水を始めとする色々な他の分子にとり囲まれていて、それらの影響(これを分子間相互作用と言います)を強く受けています。この影響の受け方は、蛋白質分子1個1個で異なっています。また、常温では、熱による分子振動のために蛋白質分子の構造に大きなゆらぎがあると考えられています。したがって、生体の中の同一の蛋白質分子であっても、それらが厳密に同じ状態にあるとは言いにくくなるのです。つまり、個性が出てくるということです。私は、ここにマクロ世界とミクロ世界との接点があるように思いますが、まだ理論的にはっきりと整理しているわけではありません。ミクロ世界とマクロ世界の接点で極めて重要な役割を果たす分子間相互作用の研究は、現代の物理化学の大きな研究テーマの一つとなっていることを付け加えておきましょう。

分子の寿命

Fig. 2

図2

クレオパトラのワインの話では、実はもう一つ大変重要なことを見逃していました。分子に寿命があるということです。クレオパトラのワインの中にあったのと同じ水分子が、今現在諸君が持っているコップの中に入っているためには、その水分子が何千年にもわたって存在しつづけることが前提となります。しかしこれは正しくありません。液体の水の中の水分子は、頻繁に水素原子を交換しています(図2)。その寿命ははっきりとはわかっていませんが、100万分の1秒よりずっと短いと考えられています。つまり、水分子中の酸素原子は大変な浮気者で、結合相手の水素をしょっちゅうとっかえひっかえしています。相手を変える頻度は、水素イオン濃度が高ければ高いほど(pHが低ければ低いほど)高くなります。したがって、水分子の寿命はコップの水の中とワインの中では大きく異なっているはずですが、この違いを測った人はまだいません。

人間の寿命は約80年で、これを秒に直すと約25億秒になります。分子には、さまざまな寿命を持つものがありますが、反応性の高い分子ほど寿命が短いという傾向があります。分子に光をあてると、反応性がたいへんに高い分子(これを励起分子という)をつくり出すことができます。この励起分子の仲間には、寿命がわずか1ピコ以下秒しかないものが沢山あることが最近わかってきました。1ピコ秒というのは、1秒の100万分の1のまた100万分の1を表わす時間(10-12秒)の単位です。1ピコ秒の間に、光はわずか0.3mmしか進みません。いかに短い時間であるかがわかると思います。そのような短い時間しか生きない分子もいるのです。人間の寿命と分子の寿命の間には、こんなに大きな違いがあります。

分子の不思議の第3は、この分子の高速性です。レチナールという分子に光を当てると、1ピコ秒以内に分子の形が大きく変化することも最近の研究により明らかになりました(図3)。これを光異性化反応と言います。我々の眼の網膜の上には、ロドプシンという蛋白質があり、その中にはレチナールが含まれています。網膜に光が入ってくると、レチナールの光異性化反応が起り、それが引き金となって視神経の興奮が誘起されるのです。目が見える、視覚という現象の一番初期の過程は、1ピコ秒以下という超高速で起る光異性化反応なのです。

Fig.3

図3

我々が目でものを見て、それにしたがった応答をするには秒単位の時間がかかります。レチナール分子1個の反応には1ピコ秒しかかからないのに、何故人間の応答はこんなに遅いのでしょうか。それは、視神経の興奮が脳に伝わり、脳が情報処理を行った後、筋肉を動かす指令を出し、最終的に筋肉が動く過程に、膨大な数の分子が関与しているからなのです。これらの分子それぞれが、それぞれ異なる反応速度を持っています。その反応速度をたしあわせて行くと結局、秒の時間となってしまうのです。1ピコ秒の超高速分子反応でも、もしそれがアボガドロ数の分子で連鎖的に起ったとすると、全体として10-12×1024=1012秒=30000年という気の遠くなるような長い時間がかかることになります。このように、1つのマクロな現象は、必ず無数のミクロな現象が、互いに連携することによって成り立っています。したがって、マクロな現象を正しく理解しようとすると、それを構成しているミクロな現象にほぐして分解し、それぞれをミクロなレベルで詳しく調べることがどうしても必要になるのです。

分子からの手紙

これまで、ミクロ世界に住む分子は、我々の五感を超えた不思議な性質をもっていることをお話ししました。では、マクロ世界に住む我々は、どのようにしてミクロ世界の分子の様子を調べることができるのでしょうか?幸いにして、分子はスペクトルという形で、我々に向けて情報を発信しています。スペクトルは、いわば分子からの手紙ということができます。このスペクトルを解読すれば、分子の世界の様子が手にとるようにわかるのです。

分子のスペクトルにはいろいろな種類があります。ここでは、インドの物理学者C. V. Ramanが1928年に発見したラマン散乱スペクトル(略してラマンスペクトルと言います)のお話をしましょう[3]。ラマンスペクトルを観測するためには、まず物質にレーザー光をあてます。そうすると、光の一部が四方八方に散乱されます。この散乱された光をプリズムで色を分けて観測すると、もともとのレーザー光の色とは異なる色の散乱光が含まれていることがわかります。この色の異なる散乱光がラマン散乱光で、その散乱光の強さを波長に対してグラフにしたものがラマンスペクトルです。ラマンスペクトルは、しばしば分子の指紋と呼ばれます。ちょうど人間の指紋と同じように、異なる分子のラマンスペクトルは必ず異なるパターンを示すからです。したがって、ラマンスペクトルを見れば、それがどの分子によるものであるか直ちに明らかにすることができます。また、ラマンスペクトルを理論の助けを借りて解析すると、分子がどのような構造をしているのかについてもある程度知ることができます。

Fig. 4

図4

図4の上段は、白ワインのラマンスペクトルです。このスペクトルに現われるいくつかのピークが、下段の純粋なエチルアルコールのラマンスペクトルのピークと良く一致していることがわかります。それ以外にも、水をはじめワインに含まれる色々な分子によるピークが弱くですが、観測されています。ワインの中の分子たちが我々に向けて発信した手紙が、図4のラマンスペクトルなのです。

化学への招待

この講演会は、「化学への招待」という題であるのに、これまでの話には化学らしいことがあまり出てこないと、疑問を感じている諸君も多いにちがいありません。中学、高校で学ぶ化学は、ビーカーやフラスコ、白衣、ベンゼン環の亀の甲などのイメージと強く結び付いています。しかし、このような化学は実は過去の化学であって、21世紀に向けた現代の化学は、もっともっとずっと広い分野を含んで発展しているのです[4]。一言で言えば、分子の性質に基づいて自然現象を理解しようとする科学はすべて化学であるということです。中学、高校生の諸君が物理や生物と思っている研究が、今では化学の中心課題となっています。

エネルギー問題、環境問題、食料問題など人類の生存に直接かかわる問題のどれ一つをとっても、それを根本的に解決しようとすると、化学の力を借りざるを得ません。その意味で化学の果たす役割は、今後ますます重要になって行きます。化学を通じて21世紀の人類の発展に貢献する道が、諸君の前に大きく開かれているのです。

参考文献

  1. クレオパトラのワインとアボガドロ数の話は、筆者が以前にどこかで聞いた講演をもとにしています。もしこの話の出典をご存じの方がいらっしゃいましたら、筆者までご一報ください。
  2. 「化学便覧」 改訂4版 日本化学会編 (丸善、1993).
  3. 「ラマン分光法」 濵口宏夫、平川暁子編著 (学会出版センター、1988).
  4. 「化学のすすめ」 濵口宏夫、黒田玲子、永田敬編著、(筑摩書房、1997).

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